私が「スキー」を始めたのは確か昭和47年頃だったと思います。
その頃はまだ地球の温暖化問題も顕在化しておらず非常に沢山の雪が降りました。
世界万国博覧会が開催されたのは昭和45年でしたから、わが国はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの高度経済成長期真っ只中だったのです。
国民の大半が中流家庭になり家電製品の大量普及が進むとともに、自家用自動車の生産拡大に追いつけ追い越せと言う事で高速道路、一般道の整備が急ピッチで進められ、一方では新幹線の路線拡張も順調に進んでいた。
そうした社会状勢の中にあって私たちの月給もうなぎ上り?に上がっていった。
月給が上がれば、耐久消費財の購買意欲も上がりまた、レジャー産業に付随した商品の販売も好景気を示していた。
そんな社会背景で私たち「若者」のみならず中高年まで、あらゆる娯楽を手に入れることが出来た。
当時流行ったものといえば、パチンコ、ボーリング、ビリヤード、スキー、登山、ダンスパーティー?、車、釣り、国内外旅行、などであった。
数ある娯楽の中で私の興味をひいたのはスキーであった。
当時は現在のように地球の温暖化が顕在化しておりませんでしたので、非常に沢山の雪が降りました。またそれに加えて、当時は道路の除雪体制もこんにち程良くなかったので、スキー場に行くだけでも一仕事でした。
チョット時代は進みますが、昭和51の12月29日のことです。午前6時に家を出発して極楽坂スキー場に向かい午後3時に家に辿りついたことがあります。勿論スキーを履くことなくです(除雪の遅れとスキー場へ向かう車のラッシュで立山町横江でリタイヤーUターン)。
そんな派手な甘い時代は長く続きませんでした。あの忌まわしいバブルの崩壊がもう既にすぐそこに迫ってきていたのです。
私は、安価な道具と乏しい技術で、開業したての牛岳スキー場へ友達数人とよく(シーズン7日程)行ったものです。
当時、一般的に1シーズン7回も行くと言うのは多いほうではなかったかなと思います。
ただし基礎練習をするワケでもなく、ちんたらと上から下へ降りてくるだけが目的の遊びスキーだったので、当然上手くはなりませんでした。
ダラダラと歳を重ねた昭和56年頃、我が職場に非常にスキーが上手くて熱心な同僚がいたのですが、彼とスキー談義をしていてスキーは上手くならないと本当に楽しくならないのではないか?と言う結論になり、本格的に頑張るためには「スキークラブ」を作ろうということになりました。
スキークラブと言っても10名にも満たない弱小クラブでしたし、シーズンが短いのでなかなか上達しませんでした。
そうこうしているうちに、昭和64年(平成元年)だったと記憶していますが、スキークラブ員がどんどん増えて20名を超えるようになりました。
更にほかの職場からコンバートしてきた職員の中にスキーの指導員の資格を持っている者がおり、クラブ員全員一丸となって技術向上に燃えたのは平成10年頃まででした。
ツアーに行ったり、合宿をしたり、真剣に練習をしました。ツアーといってもほとんど練習ツアーで遊び半分はなかったと自負している。
また、最高に沢山スキー場へ行った時は1シーズン40日(ナイター込)ぐらいだったと思います。
社会経済の沈滞と不況などがあり我が職場にも合理化の嵐が吹き荒れ、新規採用はゼロと非常に厳しい状況に追い込まれました。スキー人口は年々減少傾向をたどってきています。
我がクラブも例外ではありません。
SKI業界はカービングスキーを開発したり、リフト券の値引きをしたり、ウエアーなどのマテリアルを安価で製作したりと努力はしているようですが、柳の木の下にはドジョウ下は1匹しかがいないのでしょうか?
クラブ員の高齢化と家庭の事情等もありスキー熱が冷めていくクラブ員がどんどん増えて来ている現在本当に淋しく思います。
でも、私は今まで世話になった人のためにも、自分自身のためにも、現在技術(いまだに超ヘタ)を維持するためにも頑張るぞ〜。
という訳で−−私の思いつくまま−−たわごとは終わりです。(2004.8.30)
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